先日の冷たい雨の夜、渋谷の街を歩いていた。街はクリスマスの飾りに年末ムードも高まる中で、冷たい雨も吹き飛ばさんばかり、少々バテ気味の僕にはそんな街の空騒ぎも少々辛く、何か暖かいモノでも食べようと一人ラーメン屋に入ると、不意に3年前に逝ってしまった旧友「下村誠」との思い出が押し寄せた。
音楽業界とオルタナティブの接点に立っていた下村さん
下村誠は出会った90年代半ば頃には主に音楽ライター&インディーズプロデューサーとして、佐野元春、宮沢和史、ブルーハーツといった一線級のアーティストと仕事をしている人だった。今も彼のライター時代の著作が、佐野元春、エコーズといったアーティストとの共作として出版されている。そして僕にとっては、ステージやイベントのつくり方を一緒に動き学び、10年以上にわたってお茶の水GAIA~湯島聖堂~代々木公園と、アースガーデンが成長していく過程を身近で見守ってくれた本当にあったかい兄貴分だった。
そんな彼と、その渋谷のラーメン屋で2度ほど一緒にご飯を食べた覚えがある。ライブハウス・クアトロにでも行く時だったろうか。いつも目を細くして、嬉しそうに美味しそうにご飯を食べる人だった。変化の激しい渋谷の街の真ん中でも昔とほとんど変わっていないお店の小さいカウンターに座っていると、隣から下村さんの元気な声が聞こえてきそうで、懐かしい思い出が僕を心地よく撫でていく。冷たい雨さえ下村さんとの想い出に好ましく思えてくるような優しいひと時だった。
自然に近い暮らしと
活動を始めたところでの訃報
下村さんは、2000年頃から活動の比重を文筆&プロデュースから、あらためてシンガー&ミュージシャンへと移しはじめ、全国を草の根で巡るツアーをコツコツと重ねていった。「全然お金にならないけど、やっぱりやりたい事やらないと!」そう言いながら、日の出の森の埋め立て処分場問題に真剣に入れ込み、ストップロッカショのイベントにも欠かさず駆けつけてくれる彼はホントに純粋な人だった。ナナオや草の根の仲間の場にも熱心で、まだまだ人が集まらないころのアースデイやアースガーデンの代々木公園に、“こういう時こそ”とつきあってくれるのが本当にありがたくて心強かった。きっと今も健在ならば、高尾山や祝島、辺野古へと駆けめぐっていたに違いない。
そんな下村さんだったのに、念願の自然に近い場での暮らしを長野伊那谷で深め始めた矢先、2006年12月6日に家の火事で亡くなってしまった。まだ50代に入ったばかりの突然の訃報に、やるせないばかりの年の暮れだった。
いつも、優しく少し照れくさそうに笑い、願いを込めて振り絞るように歌う人だった。この数年、ap bank fes.との関わりの中で、Mr.Childrenの桜井さんの歌に触れると、その純粋さや自分の歌のチカラを超えて何かを届けようとする姿が、下村さんに重なって見える。歌もなにげに似ているように聞こえてくるのだ、、、。
逝った人に生かされて
長い付き合いの、
頼りになる気持ちの良い友だちを失ってしまいました。
まだまだこの先、長く一緒に
色々な事ができるだろうと思っていました。
本当に残念で残念でなりません。
今はただ、彼の冥福を祈っています。
知人たちに流した下村さんの訃報メールの最後の一節だ。こうして久しぶりに下村さんを思い返しているとシミジミと、今も下村さんがいてくれたらと思えてならない。下村さんは逝ってしまったけれど、渋谷の街を歩く僕の中にフッと彼の暖かさが蘇るように、彼のエネルギーは僕の中に確実に生きている。
そんな逝ってしまった人のエネルギーに生かされている自分を、暮らし走り回る日々の折々に感じる。逝ってしまった下村さんのためにこそ、彼らに生かされる自分だからこそ、精一杯に生きていく。
これを機会に、下村さんの作品に触れてもらえれば嬉しいです。